2010..7.8(木)
知り合いが箱根の石仏を見てきたよ、曽我兄弟の墓もあった、と言う。
何となく気になって、ネットで調べてみた。
箱根町から少し芦之湯の方へ上がった池の畔にあることが分かった。
それから数日後、ふと思いついて、早お昼を食べてから、椿ラインを駆け上がった.
ウィークデイだし、道はすいていたが、
逆に暴走気味の二輪車の走行が多かった.
後ろから追尾されたら、抜かせてやり、カーブでは、対向車のハミ出しに極力注意した.
生憎、大観山では、富士山を見ることが出来ず、
ここには、用はないと先を急ぐことにした。
箱根町の大鳥居の交差点を右折。暫く進むと、
石仏群の標識が出ている比較的大きな駐車場があり、
その一角に、資料館があった。
館内に入ると
このような、おどろおどろしい文字が、迎えてくれる。
館内には、どのような経緯で石仏群の保護がなされたか、
鎌倉時代からの石仏のたどった道などの説明がある。
今でこそ、表の通りは国道1号線で、バスも走っているが、
鎌倉、室町時代、
この辺りは、旅人にとって、正に、地獄のように辛い道であったろう。
駒ケ岳と、二子山に挟まれた谷あい。
昼なお暗い、池というか、沼というか、その畔を通らねばならない。
これが、江戸時代になると、
東海道はルートが変わり、少しましな道になったし、
この辺りは、信仰の対象として、芦之湯に湯治に訪れる人が立ち寄る場所として残された。
(クリック)
ここの見所は、この案内図に見る、7ヶ所の石仏、磨崖仏等である。
資料館を出たら、案内に従って、池の東側の小道を行くと、
右側に国道の下を通るトンネルがある。
心霊スポットというわけではないが、
何となく落ち着かない気持ちになって、私は般若心経を唱えながら進んだ。
14世紀初頭、安山岩の岩に掘られた大きな磨崖仏である。俗称六道地蔵と言われている。
鎌倉時代から、石仏を覆う庇があったようだが、当時のものは奥行きの浅い庇で(上の絵参照)
室町時代のものを模して作られたのが、現在のお堂だそうだ。
地下道を戻って、元の小道に出ると、
左側に、完全な形ではない宝篋印塔がある。
1350年制作の通称、八百比丘尼の墓である。
何故、この場所に、八百比丘尼の墓があるのかについては、定説がないそうで、
日本全国にある、八百比丘尼伝説が、
地蔵信仰とどういうわけか関わりを持つようになり、
作られた、あるいは、そう呼ばれるようになったのではないかと思う。
(八百比丘尼伝説とは、若狭の国などに伝わり、人魚の肉を食べた娘が、永遠の命を持つようになった、という話)
この広場の反対側には、
応長地蔵と呼ばれる磨崖仏があります。
大きさはさほどのものではないのですが、仏龕に彫られた菩薩像はしっかりしたもので、
地元の人が、不幸があった時には、
この地蔵の前で送り火を焚き、花や線香を池にたむけ、霊を送ったという習慣があったのだそうだ。
それ故に、この地蔵を火焚地蔵とも呼んだと言われる。
更に先に進み、池を外れた辺りまで来ると、多田満仲(源満仲)の墓がある。
多田満仲は清和源氏の祖ともいうべき人で、政治の舞台で色々画策したこともあって、必ずしも評判は良くないが、武士の集団を初めて創り上げた人と言われている。源頼光の父である。兵庫県多田郷に入り、本拠としたので、多田性を名乗った。
死後かなり経ってはいるが、鎌倉時代に、ここでその霊を弔ったということは十分考えられる。
この先には、二十五菩薩と呼ばれる磨崖仏がある。国道を挟んで、西側に阿弥陀如来と地蔵菩薩、東側に3体の地蔵菩薩が彫られている。
西側から東側へは地下道が出来ていて、簡単に行くことができる。
この磨崖仏は、彫られた年号から、13世紀後半の制作とされ、六道地蔵などより、古いものである。
東側には小さな休憩所がつくってあり、若い男性が二人、話しをしていた。一人はツーリング中、一人はハイカーのようだった。
この小さな広場を抜けると、細い遊歩道があり、
その先には、俗称、曽我兄弟と虎御前の墓がある。
この五輪塔には、地蔵講の名前が入っており、そうした記録のある、歴史的に最も古い五輪塔であるとされている。
奇しくも、この日は旧暦5月28日で、この日に降る雨を虎の雨といい、俳句の季語になっている、という話を、翌日、俳句の先生からお聞きした。
元きた道を戻り、池に沿って、西側の遊歩道を歩いてみた。
下草は刈られており、歩くのに苦労はないが、
道の両側に生えている笹竹が道の方に倒れかかり、
これを避けながら歩くのに骨が折れた。途中から、枯れ木を拾って、これで避けながら歩くことにした。
ところどころ、すぐそばまで池の水が来ており、低い位置から水面を見ると、さざ波が立ち、気持ちの落ち着くのを感じた。